ファンシープログレッシブ宣言
プログレ・マインドの陥りやすい傾向として、「シニシズム」と「メインストリームに対する蔑み」がある。青春時代、プログレ畑にもまれながら厨二街道を疾走していた私も、高校を卒業するころになると、この二つのアティチュードには次第に疑問を感じるようになっていた。
プログレッシブたる者、“大衆” を冷笑的なまなざしで眺めたり、売れ線をひたすら蔑視するような手法が必ずしも適切ではないのではないか……?
プログレに付随する負のオーラを払拭するべく、当時私のミューズであった妹と二人で新たなコンセプトモデルの模索をはじめた。そんななかで発見したのが「ファンシー」という概念である。
プログレッシブの陰、ファンシーの陽
ここでいうファンシーとは、高級だとか派手だとかいう意味の fancy ではなく、あくまで日本のカタカナ語の「ファンシー」。自称「センスある側の人間」や「センスの体制派」から、まさに蔑みの対象になりがちな趣向を指す。
人が「ラッセン(笑)」と言ったとき、その括弧笑いには何が含まれているのだろうか。「あんなものはアートでもなんでもない」だろうか。「あんなものが素敵とか思ってるやつは、教養のない文化弱者であるに違いない」だろうか。さらには「あんなのが好きだなんて、女子かよ」といった、“女性が好きそうなもの軽視” も混じっているかもしれない。ファンシーとは、知識や技巧、文脈、批判などの高尚な洗練プロセスを経ずに存在している、幼稚で脳天気な趣味だというわけだ。
しかし、その無批判の美意識、審美眼のイノセンスこそが、我々プログレッシブ・パーソンが忘れてはならない態度ではないだろうか。
目を利かせないという選択
スレた心でプログレッシブに生きようとすると、「あら素敵」と思うフィーリングに理性が蓋をしてしまったり、気づいたら黒いもの・暗いものばかりに囲まれていたり、むしろプログレッシブの幅を狭めるような状況が生まれやすい。
尖るのもいいけど、角丸もいい。蓄積した文化ヒエラルキーの垢を落とし、イノセントな「ファンシー」に立ち返る姿勢をもててこそ、真の無指向性プログレッシブが可能になる。
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セオ商事のプログレッシブ Advent Calendar 8日目。セオ商事のメンバー3人が「プログレッシブ」をテーマに25日間、交代で記事を書きつづけます。