プログレッシブに生きる
無事完走しつつある Advent Calendar をぼんやり眺めて、改めて弊社にはプログレッシブな人間しかいないのだなあとしみじみしています。
プログレッシブな人間というのは、プログレッシブな生き方をしているということ。
今回は、自分なりの一連のまとめとして、この「プログレッシブな生き方」について考察します。
のっけから大風呂敷を広げますが、そもそも、生きるとは何なのでしょうか。
呼吸をすること?思考を巡らすこと?仕事をすること?
谷川俊太郎は「生きる」という名の詩にこのような一節をしるしています。
生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎていくこと
本来ならば、「生きる」という言葉自体にはよい悪いのベクトルなんてありませんし、そもそも善悪の判断自体が、現在の社会の有り様に合わせて様々に適合してきた価値観のうちの一つにすぎません。
なにがよくて、なにがだめなのか。その価値判断は固定観念ではないのか、リビルドできないのか。ふつうがいい?「ふつう」ってなに?疑問は尽きません。
例えば、「我が道を行く」という生き方は、ある側面においてプログレッシブであるといえます。
世間の、周りの「よさ」に迎合することなく進んでいけるということ、ベクトルに負けない心を持てるということ。
ただ、せっかくの集合知(場合によって集合愚となる可能性は否定しませんが)、自身とは違うプロセスで表出した枝なのだから、取り込まないのはもったいない!……とも考えたいものです。
言うなれば、人生はバタフライエフェクトの連続です。昼食をマクドナルドに買いにいったその行動が、数年後の自分の未来を決める……なんていう、どうしようもない偶然の集まりです。
プログレッシブであるということは、興味と使命と偶然を操作しながら、一見無作為に思考の、そして嗜好の枝を伸ばしていくということです。
そしてその枝どうしを、自分や他人の枝でもってつなげる術を持っています。
それは、この人生のバタフライエフェクトを、少しだけ意識的に操れるということでもあるのではないでしょうか。どうですか、ワクワクしませんか?
また、この枝は、他者とのコミュニケーションによっても新たに生じえます。
相手の熱に感応して、考察・吟味し、枝としてインストールする作業は、とてもクリエイティブなものです。
分からないものにアレルギー反応を起こすことなく、一度飲み込んで全力で乗っかってみるというのも、プログレッシブの存分な発露と言えるでしょう。
そうして出来上がった枝の組み合わせは、(一般的によいとされるものの求められる)お仕事においてこそ、無二のアイデアとして活用できるもののように思います。
カウンターカルチャーでもサブカルチャーでもない、このプログレッシブ・カルチャーの夜明けが、未来のわたし自身を含む、この世界の迷える誰かのよすがとなれることを祈りつつ、筆を置きたいと思います。
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セオ商事のプログレッシブ Advent Calendar 2017 24日目でした。