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ダーウィニズムとプログレッシブ

大学に、職業訓練所としての機能を望む人がいる。社会にも余裕がないなか、高い学費の対価として確実に役立ってくれるような教育を求めるのは自然だ。

どんな仕事に就きたいかが決まっていれば、そこで即戦力となるために必要な知識や訓練はだいたいわかる。即役立つことだけを集中的に学べば効率的だ。いまのデザイントレンド、いま業界標準のアプリケーション、いま需要のあるプログラミング言語……。が、目先のお役立ちノウハウは五年後、十年後にもはたして有効なのだろうか。学んだことがピンポイントであればあるほど、想定していた具体的な環境や領域を越えた応用はむずかしくなってくる。

大学で偶然聴講していたカリグラフィーの授業が、十年後 Macintosh を作る際に役立ったというスティーブ・ジョブズの有名なエピソードがある。受講時にはなんの実用性もないだろうと思っていたのに、あとから思い返せばあれが役に立った、と。未来の自分に何が役に立つのかを、事前に知ることはできない。

役立ちへの意志

生物の進化を語るときに、「より○○するためにこうなった」という意志性が込められてしまうときがある。「木の上で生き延びるために手足が伸びた」「遠くの音を聞くために耳が大きくなった」などと、ある種の簡略ポエム表現なのかもしれないが、いかにもある目的に向かって自発的に進化しているかのような印象を与える。

人間は自らの意志で役立つものを作るという感覚にあまりにも慣れている。実際、役に立つものを作ろうとして積極的に品種改良などを行う。明確な意志によってしか何も起こらないかのような錯覚に陥り、自然界をぼんやりと眺めたときにもそういう目的意識の介在を感じずにはいられないのかもしれない。意志によって良くなれる、前進できると信じたいのだ。

それはそれで立派なことに違いない。良くなりたいと思い、良くなれると信じてきた先人たちの努力のおかげでこんなに便利な世の中が出来上がっている。

しかしこの息苦しさはなんだろう。役に立つものは金になる。ビジネスの手法が急速に研ぎ澄まされていくなか、社会全体が「価値を生みたさ」すなわち「得をしたさ」に取り憑かれている。わかりやすく得になること以外に費やされるリソースはすべてが損失であるとでも言わんばかりに。

意味からの救済

そんな閉塞からの解放をもたらしてくれるのが、ダーウィニズムの「身も蓋もなさ」だ。偶然ある日、変異が生じる。偶然、生存と繁殖に適していた変異が増殖していく。そこには向上への意志もなにもない。役に立とうと思って突然変異するわけではないのだ。しかも、生存と繁殖が「良い」ともべつに言ってない。目的意識などない。増えるのに適していた形質が増える、ただそれだけのこと。究極の結果論である。

この目的のなさ、ゴールのなさ、意味のなさを恐怖と感じる人もいるからおもしろい。しかし私にとっては救いでしかない。狭い人間都合の葛藤に意識が閉じ込められていた状態から、宇宙の途方もない「意味のなさ」に放り出されるのだ。広い。とてつもなく広い!

偶然の積み重ねで生まれ出てくるものは、ときに人間が意志をもって計画的に生み出せるようなものをはるかに凌駕する。人間が持ちうる「役に立つ」の視野角なんてたかが知れてるのだ。「良くなる」「役に立つ」に固執して行動するということは、驚異的なポテンシャルをもつ突然変異の発生をさまたげてしまうことである。

なにも、あなたの小さなプログレッシブ変異が直接ビッグウェーブを巻き起こす必要はない。小さな変化が誰かに影響を及ぼし、その結果生まれた変化がまた違う誰かを触発し……と人類全体で相互作用を重ねているのだ。

わかりやすく「意味があった」「役に立った」とのちに評価されるようなことでさえ、たくさんの無意味で無益なものが交配を繰り返した結果として生まれてくる。意味のないもの、役に立たないものに蓋をしてはいけないのだ。


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セオ商事のプログレッシブ Advent Calendar 23日目。セオ商事のメンバー3人が「プログレッシブ」をテーマに25日間、交代で記事を書きつづけます。