曇り硝子越しのプログレッシブ
セオ商事のプログレッシブ Advent Calendar 2日目。
正直、ほかの弊社メンバー2人が「プログレッシブ」という言葉を何だと思ってるのか知らないし、想像もつかない。
テーマの意味をお互い確認せずに交代で25日間のアドベントカレンダーを書き上げようという試み自体がプログレッシブだ。この1ヵ月でなんらかの共通認識が形成されるのか、それとも最後までそれぞれ独自路線でやっていくのか。
こんな曖昧な状態でなんとなく成立してしまう「プログレッシブ」という言葉。肝心のその意味についてはこの25日間でじっくりと明らかにしていくとして、ここではまず「プログレッシブ」という記号表現そのもの、シニフィアンとしてのプログレッシブについて考えてみたい。
曖昧さのスウィートスポット
言葉の持ちうる機能とは、正確な意味の伝達だけではない。
散文と詩文を分ける性質がずばり「曖昧さ」であるという考えもあるように、曖昧さのコントロールこそが言葉の、ひいては表現行為すべての、根本的な快楽といえる。
ある程度の曖昧さを保ったまま話を進めたいとき、当然どんな言葉でも成立するというわけではなく、“ちょうどいい” 具合のワードを採用しないといけない。
たとえば、「お金」の事前定義をせずに「お金について話そう!」と議題を立てたところで、あなたの考えるお金と私の考えるお金がそんなにかけ離れてる気がしない。ものすごく確定性のある言葉であるため、「お金」が指し示す意味がわかりきった状態、ないしは意味を疑わない状態で会話が進みそうだ。
ところが、これを「マネーについて話そう!」に言いかえるだけで、少し自信がもてなくなってくる。辞書で引いても「マネー=金、金銭」としか書いてないのに、「お金を渡してきた」と「マネーを渡してきた」では、なんだか意味が違う気がする。しかしそのニュアンスの違いは、寸分違わず他者と共有できているのだろうか?
そこでさらに一歩踏み込んで、「マニーについて話そう!」までもっていくともう中身はまったくの謎である。マニーという表現が非常に意図的に選択されている様子であるのに、それが婉曲のつもりなのか、侮蔑なのか、ただの照れ隠しなのか、正確に汲みとるのは困難だろう。
ただ「money」までいってしまうと、また意味が確定的に感じられてしまう。確実な日本語の言葉と確実な英語の言葉を結ぶ線上のどこかしらに、不確実性のベストポジションがあるのではないか。
金銭〜moneyスペクトラム
金銭 → お金 → マネー → マニー → money
カタカナの煙幕効果
バズワードや、人を煙に巻くための言葉がたいがいカタカナ語なのは、そういう理屈がありそうだ。記号内容がはっきりしないぶん、受け手側で意味をよろしく発生させてくれる。作詞やコピーライティングで「ぼくらの時代 → ぼくらのジダイ」と1個カタカナに変換したら1詩情ポイントゲットみたいな安易な手もあるぐらいである。
それでいうと、「プログレッシブ」はなかなかちょうどいい。「進歩」「革新」「progressive」はどれもそそらないというか、まあ広辞苑でも引いときゃいいんじゃないのと思ってしまう。
「〜ッシブ」の接尾辞もいい。「プログレッシブ」と「プログレス的」を比べてみるとわかるが、「〜ッシブ」が「プログレス」の意味を適度にぼかしてくれている。(なぜプログレスをぼかしたいのかについては後日エントリにて)
プログレッシブの意味を知る者が
最初に石を投げなさい
世間的に「プログレッシブ」という言葉と紐づいてるものが、音楽、政治思想、JPEG、ウェブアプリ、などとかなり散漫であるので、それらから共通項をひっかき集めて「プログレッシブってこういう意味だよね」と自信をもって言える人が少なそうなのも好都合である。
「なんかいろいろ持論を展開してるけど、その言葉ってそういう意味じゃなくない?」といった疑問を差し挟まれたら失敗なのだ。