哲学論文レビュー:「問いとは何か?」ラニ・ワトソン(2021)
◉問いってそもそも何なんだろう?
セオ商事の難波です。さいきん、社内では「問いってそもそも何なんだろう?」という問いがホットな問いとなっています。そこで、「Question Philosopy」で検索していると、近年「問いの哲学」と呼ばれるジャンルの研究が立ち上がり始めていることを知りました。この分野の最新の研究の一つとして、問いの哲学のトップランナー、ラニ・ワトソンの論文を読んでまとめてみました。
書誌情報:Watson, L. (2021). What is a Question. Royal Institute of Philosophy Supplements, 89, 273-297.
◉ソクラテスがみんなに訊きそびれていたこと
哲学の一つの源流である、哲人ソクラテスは、アテナイの人々に「勇気とは何か?」「知恵とは何か?」と問うて回りました。智者と呼ばれる人も、偉い人も、その問いに満足な返答ができませんでした。面目を潰され侮辱された! と怒った市民の不興を買い、彼は毒杯を仰ぐことに。彼を慕う弟子たちに、人間と世界をめぐる無数の問いを遺して死んでいきました。
このエピソードに象徴されるように、哲学は問いかけの学問だと言えます。「時間とは何か?」「言語とは何か?」「生きている、とは何か?」「お金とは何か?」「人間とは何か?」そして、「存在とは何か?」……哲学とは、こうした問いを問うた過去の哲学者と対話し、新たに問いを見つけ、それに答えようとする営みです。ときにそれは問いかける人を窮地に追いやるような重大なものにもなる。
しかし、驚くべきことに、問いの中でもっとも基本的な問い、すなわち、「問いとは何か?」という問いはこれまで哲学の中でそれほど問われては来ませんでした。あのソクラテスでさえ、「問いとは何か?」と問うことは一度もなかったのです(Watson 2021, 273)。哲学は問いの学問なのに。
「問い」が重要なのは哲学だけではありません。近年、ビジネスの世界でも「問い」が重要だと言われ始めています。
しかし、そういえば、問いとはそもそも何なのだろうか……?
◉これが問いの答えだ?
そんな中、「わたしたちの人生における、問いとは何かを哲学的に考える価値と意義」を主張する現代の哲学者のラニ・ワトソンは、「問いとは何か?」を「問いの問い(Question Question)」と呼び、問いの問いへの答えを「問いとは何か」(2021)という論文で与えようとします。
その答えとは……
分かったような分からないような答えです。さらに彼女は、「問いとは、認知的ツールだ」とも言います。なぜこの答えに至ったのか? 認知的ツールとしての問いとは?
いまから、その道のりを一つずつ辿ってみましょう。彼女の答えは、見た目以上に、問いの本質をたしかに掴んでいるものなのです。
◉問いとは、命題の性質である?
「問いの問い」は、まったく問われて来なかったわけではありません。現代哲学における論理学と言語哲学では、「問いとは何か」に形式的な方向から迫って来ました。一つの例を見てみましょう。
簡単に言えば、「この部屋にあるものは何か?」という問いは、「この部屋には椅子がある」「この部屋には机がある」……といった無数の適切な「答えの集まり」を指定するような性質を持っている、というわけです。
なるほど、スマートです。けれど、日常使いの説明としては、すこし硬すぎる感触も確かにある。そこでワトソンは方向転換して、日々私たちがどんなふうに「問い」を使っているのか、その実態から分析を始めよう、と呼びかけ、彼女が自身のwebサイトで行う調査を参照しながら、問いに迫ることを宣言します。
◉問いとは何でないか?
ワトソンはまず、問いの二つの否定的な特徴を説明します。
①問いはつねには疑問文ではない。
少し意外ですが、問いは必ずしも疑問文でなくてもよいのだと言います。ワトソンは次の事例を挙げます。
この事例に「問いはありますか?」と質問したところ、71%が「ある」、20%が「ない」、8%が「よく分からない」と答えました(それぞれ、3515人、996人、365人)。
重要なのは、サラが3つの単語を入力して検索しただけであり「地元のエジンバラの肉屋はどこ?」と疑問文で訊いたわけではないことです。しかし大半の人々はサラが「問いかけた」と認識しています。実際、「ある」と答えた者は「グーグルで検索することは問いかけることだろう」と述べてもいるそうです。
対して、「疑問文であってもつねに問いではない」も成り立ちます。別の事例を紹介しましょう。
この事例に「問いはありますか?」と質問したところ、35%が「ある」、58%が「ない」、7%が「よく分からない」と答えました(それぞれ、2115人、3432人、406人)。
②問いはつねには言語で表現される訳ではない。
こちらはさらに意外かもしれません。問いはさすがに言語的なものではないでしょうか?
この事例に「問いはありますか?」と質問したところ、81%が「ある」、14%が「ない」、5%が「よく分からない」と答えました(それぞれ、4119人、725人、260人)。さらに別の事例ではどうでしょうか?
この事例に「問いはありますか?」と質問したところ、66%が「ある」、28%が「ない」、6%が「よく分からない」と答えました(それぞれ、3670人、1589人、352人)。
以上より、ワトソンによれば、問いとは、必ずしも疑問文で表されるわけではなく、言語的に表現されるわけでもないのです。
◉問いとは行為である
問いは普通疑問文で表されそうですし、言語的なものでもありそうでした。もし、つねにそのどちらでもないとしたら、問いとはいったい何なのでしょうか?
この事例に「問いはありますか?」と質問したところ、95%が「ある」、3%が「ない」、2%が「よく分からない」と答えました(それぞれ、4711人、147人、94人)。これは明確に問いだとわたしも思います。
では、このとき、問いはどこに見いだされているのでしょうか?
思い出してください。問いは、疑問文でもなくてもよかった。問いは、言語的表現でもなくてもよかった。しかし、この事例では、サラの発話は疑問文であり、言語的表現です(※1)。
ということは、この事例から、疑問文であることと言語的表現であることを引いた残りが問いの本質と言えるではないでしょうか?
さて、サラの発話から、疑問文と言語的表現を引くと何が残るでしょうか?
ここで、ワトソンは「言語行為論」を参照します。言語行為論とは、わたしたちは、喋ることで、同時に別の行為も行ってもいる、と考える、イギリスの著名な言語哲学者J・L・オースティン(1962)が提唱した論です。
たとえば、「誓います」と西洋式の結婚式の一連の流れの中で発話したとき、あるいは、「私はこの船をクイーン・エリザベス号」と命名する」と船首に瓶を叩きつけながら発話するとき、
つまり、「誓います」と発話するとき、私は「誓う」という行為を行っていますし、「〜と命名する」と発話するとき「命名」という行為を行っています。わたしたちは、何かを発話すると同時に、しばしば、発話以外の何かも行っているのです。
さて、準備が整いました。それでは、サラは、「国っていくつあるんだっけ?」と声に出して言う=発話することで、何を行っているのでしょうか?
そう、「問い」を行っているのです。つまり、発話される問いとは、「問い」という行為なのです。そして、問いとは行為なのです。
振り返ってみましょう。
問いとは疑問文でなくてもよいのでした。Googleの検索窓に「地元 エジンバラ 肉屋」と打ち込む––––これは行為です。問いは言語的表現でなくてもよいのでした。知らない単語を辞書で調べる––––行為です。知らない横断歩道を渡る時に左右を見る––––行為です。そして、国の数を訊ねる––––行為です。
問いとは、行為です。しかし、どのような行為なのでしょうか? それこそが問いの問いに答えるためのもう一つの重要なピースです。
◉問いとは情報-探索の行為である
問いを問うとき、人々は何をしているのでしょうか? ワトソンは、「情報-探索(information-seeking)」をしているのだと言います。
COUNTRIESの事例では、サラは、国の数がいくつあるか、その情報を尋ねています。GOOGLEの事例、DICTIONARYの事例、ROADの事例のすべてに見られるのは、行為であり、そして情報-探索なのです。
ここまでの議論をまとめてみましょう。
◉問いの哲学はどう使えるのか?
さて、問いとは何かが分かったところで、具体的に、この答えはわたしたちにどんな理解を与えてくれるのでしょうか?(※2)ワトソンの議論を参照しつつ、発展的な考察を加えながら、問いの哲学の使い方を考えていきます。
情報-探索する情報は、「国の数」「横断歩道の交通量」といった「世界に関する具体的な情報」だけではなく、「相手がどこまで知っているのか」という相手の理解を確認する際にも力を発揮します。ワトソンの別の事例を引いてみましょう。
この事例に「問いはありますか?」と質問したところ、84%が「ある」、12%が「ない」、4%が「よく分からない」と答えました(それぞれ、4223人、583人、215人)。
この事例では、サラは鉛筆の本数の計算についての情報を持っています。しかし子どもにわざわざ訊ねているのは、彼が知っているかどうか、情報を訊ねているのです。ゆえに、問いとは、相手が情報をもっているかどうか=より高次の情報の確認にも使えるわけです。
◉さらに考えてみたこと、物語の問い:SFプロトタイピングを事例に
問いは外部化できます。辞書のケースや横断歩道を渡るケースでは、問いは自分の中にしかありませんでした。しかし、問いを言葉に発することで、他者と問いが共有可能になります。
これをより発展させれば、問いは様々なオブジェクトに実装することができることが明らかになります。
たとえば、わたしは、SFプロトタイパーとして、SF作品を制作することを通じて問いを見つけること、そして、SF作品そのものに問いを埋め込むことで、読み手の問いを引き出すような作品を制作しようとしています。
これは、SFの物語に問いを埋め込もうとする試みだと理解できます。そして、わたしが行うSFプロトタイピングプロジェクトにおいて「よい問いを引き出せるSFプロトタイピング作品制作」が目指されています。それでは、わたしはどのような情報-探索をSFプロトタイプ作品に埋め込もうとするのでしょうか?
これらはまだ仮説の段階ですが、問いの本性を考えることで、どのような物語を作るべきか、その指針を考察し始めることができるでしょう。
◉問いの哲学はまだまだ問いに満ちている:問いの問いから問いについての問いへ
ワトソンの議論は、問いをその機能から分析したものです。逆にいえば、問いの機能を明確化した本稿は、その機能の拡張やよりよい用途を思いつくためのヒントになるでしょう。少し長いですがワトソンの言葉を引いてみます。
ここから、様々な「問いについての問い(Question about Question)」を考えることができます。
問いの哲学は、ワトソンが言うように、まだまだ発展の可能性を秘めています。わたしもまた、問いの哲学を考えることは、哲学とビジネスの実践に様々な実りある思考をもたらす予感を覚えています。
問いの哲学の未来に向かって。わくわくするような問いがまだ数多く眠っていそうです。
注
※1 ワトソンの議論とは違う議論の進め方をしている。彼女自身は、先に言語行為論を紹介し、質問的な発話が行為遂行的言語行為であることを指摘して、サラのCOUNTRIESの事例を出す。そして、サラの問いの発話が行為遂行的言語行為であると指摘する(Watson 2021, 285-286)。しかし、より分かりやすいのは、先にサラのCOUNTRIESの事例でサラの発話において疑問文でもなく、言語的表現でもない要素を見出す流れのほうだろうと考え異なる議論の進め方をしている。
※2 ここまででワトソンはいったんの結論を提示している。そして論文では反論への応答がなされているが、ここでは扱わない。
参考文献
Austin, J. L. 1962. How to Do Things with Words. Oxford University Press.(飯野勝己訳『言語と行為––––いかにして言葉でものごとを行なうか』講談社、2019年).
遠藤進平. 2020. 質問を理解するとき、わたしたちはなにを理解しているのか?――質問の意味論入門(草稿)
文=難波優輝(セオ商事)