問いを立てるときに、何がおこなわれているのか?
最近よく耳にするようになった「問い」とはなんだろうか?
「良い問いを見つけることが大事だ」といった発言を耳にしたことがある人もいるかもしれない。その名も「新しい問いを探す哲学カルチャーマガジン ニューQ」という雑誌を編集しているし、メタフィジカルデザイン(と我々は呼んでいる)という取り組みの中で「問いを立てるワークショップ」というものも、ここ数年おこなっている。
ここであらためて「問い」とはなんだろうか?
なぜ「問い」を立てる必要があるのだろうか?
哲学研究者であれば「何をいまさら」と感じるかもしれない。哲学的に思考を深めるのに問いは不可欠である。しかし、一般的に考えるときにはたして問いを立てることは必要なのだろうか?
実は企画の仕事を長く続けてきた自分は、あるときまで「問い」を意識的に考えたことはなかった(じゃあ、何を考えていたかというと、問いを立てることなくアイデアを考えていた)。
そこで気になってnewQメンバーの難波さんに調べてもらったところ、出てきたのがこちらの論文である。
(難波さんによる、とても分かりやすい解説記事はコチラ)
意外なことに哲学の中でも「問い」について問うというメタ的行為はあまり行われていなかったようである(ソクラテスも問いを問うていなかったと書かれている。かっこいい)。このラニ・ワトソン氏による論文はとても面白いのだが、ここからさらに先を考えてみたいと思う。こちらの論文からは以下2点の主張を参照する。なので、先にこちらの文章を読んでもかまわない。
1)問いは必ずしも疑問文の形をしていないし、ときに言語の形をしていない可能性もある
2)問いはツールである
さて、「問いとはなにか?」を問うのはいささか難しい予感がしたので、ここでは「問いを立てるときに、何がおこなわれているのか?」という切り口から考えることにした。また、ここでいう問いについては後述するが哲学的な営みに寄与する問いを扱う。そしてそれは冒頭で「良い問い」と言うようなときに扱われる問いである(例えば「明日は晴れるかな?」という問いは含まれない)
先に結論を図で描くとこういうことになる。
文章で説明できると良かったのだが、自分は自然言語で思考するのがそれほど得意ではないので図になってしまった。
さて、問いを立てるときに何を行っているのだろうか?
1. 問いを立てるとき、テーマに対して切り口を設定している
これは、とある遺伝子情報を扱うベンチャー企業でおこなったワークショップの時の話しであるが、「遺伝子情報サービス」というテーマに対して「遺伝子情報をあつかうとはどういうことか?」と正面からアプローチするのは中々難しい。このときは「自由」という切り口から「遺伝子を調べることにより、私たちが未来を選択する自由は、どのように変わるのか?」と問いを立て、そこからサービスに内在する価値や、考慮すべき倫理的なイシュー、人々の認知の変化(パーセプションチェンジ)を考えることとなった。
このようにテーマに対して、問いを立てるときには、切り口を設定している。
2. さらに問いを立て、テーマの理解を深めている
問いはさらに問いをもたらす。とあるニュースメディアにおいて、ニュースの価値をはかるKPIをどのように設定するか検討したとき、「公共性」という切り口から「ニュースにおける公共性とはなにか?」という問いをたて、そこからさらに産まれた「ニュースにおける公共性はどのように測れるか?」という問いの検討をおこなった。そのように問いから新しく生まれた問いを検討することにより、テーマの理解が深まることとなる。
またもちろん、同じ切り口から複数の問いを立てることが出来る。例えば「公共性を担保するメディアに必要な機能はなにか?」といった例が挙げられるだろう。
3. 別の切り口の問いから、新しいテーマの輪郭を浮かび上がらせている
問いが多くあるように、切り口も一つに限らない。例えば「これからの街づくり」といった大きなテーマも「個人商店」、「コモンズ」、「ケア」といった多様な切り口が考えられる。このように様々な切り口からテーマを考えて行くと、テーマの見えない輪郭が見えてくることがある。最終的に「これからの街づくり」という抽象的なテーマが「コミュニティを育む都市のデザイン」という新しいテーマに収斂されていくことがある。
※ 切り口をどのように設定するかという作業は、とても編集的な行為だと個人的に考えている
結局、問いを立てているときに何をしているのだろうか?
まとめると、問いを立てているとき、テーマがどのようなものであるか、さまざまな切り口から仮説を立てながら検証を行っているといえる。そうして生まれた問いは仮説や思弁を駆動するツールとしてテーマのより深い理解へと導いてくれる。そして時に、そこで問おうとしているテーマの新しい姿を発見することにつながることがある。
我々が普段「良い問い」と感じているのは、往々にしてそのようにテーマの新しい姿を見つけ出す可能性をもった問いではなかろうか。
補足 その1 : デザイン思考におけるHowの問い
デザインをはじめとした仕事においての問いは「how」という課題解決の問いであることが多い。デザイン思考において「how might we : どのようにして我々は〜できるだろうか?」という構文があるのだが、そこでは解決できるちょうどいいサイズの問いを見つけることが良しとされている。
しかし、それで充分なのだろうか?
という疑問が常にある。そもそもの課題を見つけるには多様なWhatやWhyといったテーマの価値や意味を考えるような問いが必要である。我々が問いを立てるワークショップで行っているのは、howの問いを見つけることも重要だが、まず考えるべき論点や、意味や価値の可能性を掘り下げる場をひらいていると意識することが増えてきた。
補足 その2 : 問いはどのような形をしているのか?
問いをツールと見なしたとき、様々な環境で、多様な人と議論をドライブできる形であるとうれしい。なので分かりやすく疑問形の形にして提示することは、問いのワークショップで重要なことだ。
ただラニ・ワトソン氏によれば、問いは必ずしも疑問文の形をしていない。ここまで何度も出てきた「切り口」というものもまた、より抽象的な問いである。そのような、まだ問いの形をしていない概念や、問いが生まれそうな事象に気づき、問いを見つける能力がいわゆる「問う力」だと言える。
お知らせ
というような話しを今週末(2021/12/18)、UTCP(東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター)のシンポジウムで話そうかと考えています。他にも「社会の中で哲学にできることとは?」をテーマに色々と話す予定なので、ご興味ある方は誰でもオンライン参加できるので、ぜひお気軽に登録ください。
イベントURL 👉 https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2021/12/utcp_42/