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単身渡米したら、日本人じゃなくなった

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インターナショナル・スクールで育ったら万全の国際感覚が身につくかというと、そうではない。学校によってそれぞれ特色はあるものの、人種や経済階層の多様性をそこまで都合よく確保できないからだ。学費の高額なところなら必然的にエリートの子供が多くなり、キリスト教系の学校なら宣教師の子供、米軍基地内なら軍人の子供、入学基準の緩いところだと日本人ばかりになったりする。

そのような偏った狭い国際空間でしかないのに、「インターナショナル」と銘打っているからと世界を知ったかのように思い込むのがいちばん怖い。私のなかの「インターナショナル」は、アメリカ、しかも中上流層の白人のアメリカが中心にあって、それ以外の国や人種はあくまで白人アメリカと対比させた形で存在していた。特に、日本とアメリカを対として捉える二元的な感覚は子供のころに染みついてしまい、大人になってようやく少しずつ意識的に修正できているぐらいだ。

これは学校に限らずどんな場所でも普遍的な傾向だと思うが、人はだいたい同じ人種同士でつるむ。身長、趣味、性格、さまざまな属性があるなかで、とにかくまず人種が主たる分類法になりやすい。

私が見てきたような学校だと、まず「日本人」「アメリカ人」という大フォルダがあり、この2つのグループは them と us のほぼ分断した関係になっていた。ちなみになんでこんなに区分がぞんざいかというと、そもそもカナダやイギリス、アフリカ系やヒスパニックがほとんどいなかったのである。子供だからここまで認識が雑なのかと思うかもしれないが、周りの大人たちの言動からも同じぐらいの雑さが感じられた。

日本風でも白人風でもない生徒は、授業外での主な使用言語が日本語か英語かで結局「日本人」か「アメリカ人」かに分かれる。その上で、やはり主な識別子が「イスラエル人」「インド人」「韓国人」のように出身国になってしまいがちだ。(※ 個人的な経験に基づく主観的描写なので、人や時代によって印象が異なるとは思う)

まず日本人・アメリカ人の観念が崩壊

そこで私の単身渡米である。長年、あまり疑うこともなくもっていた「日本人↔アメリカ人」という確かなバイナリが、成田空港の搭乗ゲートで早くも崩れはじめた。

東京からサンフランシスコに向かう「日本人っぽい見た目の人」は、もしかすると日本語がまったくわからない可能性があるのだ!

もちろん、日本人っぽい見た目の客室乗務員も、日本語を話せるとは限らない。日系ですらない可能性もある。客室乗務員からしても、私に何語で話しかければいいのかわからない。同行者と会話でもしていればなんとなくわかるだろうが、単身渡航者の母国語を当てるのは困難だ。「自分はどう見ても日本人」と思い込んでいた私が、何人であるかも、何語を話すのかも他人は知りようがない!

実際、機内で日本人風乗務員が私に話しかける言語は終始ブッレブレであった。軸足の定まらない私も、はじめに言葉が浮かんだ言語で返答するような状況だった。

混血のバイリンガルでありながら、子供のころから日本人としての確かなアイデンティティに特に揺らぎのなかった自分が、揺らいできた。「日本人」って、どういうことだっけ? 言語、見た目、文化、国籍……?

「何人であるか」が消え去る

アメリカでは、白人に見えない人に “Where are you from?” と聞くのが失礼で差別的だとされることがあるが、そのことの意味を身をもって感じた。

サンフランシスコに着いたら、そこはもう誰が何人であるかという特徴抽出法がナンセンスでしかない場所なんだということがすぐにわかった。ホテルのスタッフ、Uberドライバー、道を歩いてる人、もはや「何人であるか」なんて見てもわからないし、しゃべってもわからない。検討すらつかない人も多い。外見から母国語を当てるなんてもってのほか。とにかく「中心」が存在しない。

これは自分にとってなんとも解放的な体験だった。“国際風” の空間におかれたとき、否が応でも「日本人」として存在していた自分が、初めて「日本人」というラベルから自由になったのだ。

日本人、アジア人ということで自分がマイノリティのように感じることもなければ、なんとなく西洋人より下に位置する種族という感覚もない。いろんな人種風の人がワーッとグラデーションで存在しているので、何らかの中心的マジョリティを設定してそこからの距離を測るというようなことができない。Them と us というシンプルな二分が、どう切り分けても成立しない街。私はあの5日間、日本人でもアメリカ人でも、外国人観光客でも移民でも永住者でもない、ただの人だった。

アイデンティティの自由

もちろん、たかだか4泊滞在した旅行客の体験が、実際の生活者のリアリティを100%反映しているとは思わない。人種差別が皆無ということはさすがにないだろう。そもそもサンフランシスコはいま経済格差が凄まじく、ドラッグやメンタルヘルス、地価の高騰と絡み合った前代未聞のホームレス問題を抱えていたりする。シリコンバレーのテック企業が、地域に十分な還元を行わないまま高所得エンジニア人口を急増させ、元からいた住民の生活をめちゃくちゃにしているという見方もある。

しかし、集団の多様性、特に日本における多様性とはどのような形をとるのかというテーマが最近気になっている私にとって、多様性のもたらすアイデンティティの解放感を一瞬でも味わえたのは大きな収穫だった。私が日本人という看板を掲げずに・掲げられずにただ存在できたように、すべての人が身体的特徴、年齢、宗教などのあらゆる安易なラベリングを意識することなく、ただ自由に個として存在しうる世界がイメージできたのである。

つづく